#3 いつかの忘れられないコンサート
ご訪問ありがとうございます。
グレイテスト母さんに興味を持って下さり、ありがとうございます。
グレイテスト母さん、企画・脚本の岡本安代です。
制作日誌#3
#2では朗読との私との関係についてお話ししました。
朗読と一口に言っても、その捉え方は様々で、正解がない世界だとは思いますが、
それは、つまり、幾通りも正解があるとも言えます。
朗読は提案であり、会話。前回の日誌で記したこの言葉は、自分のモットーでもあります。
私はこれまで、朗読はとても地味なものだと思っていたし、(かといって派手というわけではないけれど)とても内省的で、自分(と作品)だけの世界で完結する、そう認識していました。
2年前、私はあるコンサートに行きました。朗読のコンサートです。
それは三味線と朗読。とてもシンプルなものでした。
だから、あんなにも感動するなんて思ってもいませんでした。
初めてでした。
涙が出ました。笑いました。鳥肌が立ちました。もうその場から動けなくなりました。
放心状態から目覚めたのちに、すぐにもう一度最初から味わいたくなりました。
これまで、オペラやオーケストラ、和太鼓に、落語、コンサートライブなど様々なステージを見てきたましたが、生まれて初めての経験でした。
私の心が、感動で震えているのです。
全ての毛穴が開いたような感覚に陥り、本能的にこの瞬間の全ての空気をこの体の中に閉じ込めたいと強く思いました。
私はお客さんじゃなかった・・・。当事者だったのだ。。。ということを帰りの電車の中で強く感じたことを今でも忘れられずにいます。
駆り立てるような、躍動的な語りは、実は、私たち観客への問いかけであり、
穏やかで包み込むような口調は、実は、私たちの反応を確かめるための答え合わせの時間であり、
私たち観客自身が発信する無言の言葉を受け止める時間でもあったと気付いた時、
全ての伏線が回収されたような、言いようのない興奮を覚えました。
ある時は、観客の気持ちを代弁し、またある時は観客の代わりに叫び、泣き、吠える。
物語を覗き見しているような背徳感を芽生えさせ、美しい日本語と言葉の力で正義感を呼び覚ます。
読み手と聞き手の感情のやりとりが、会場の体温を上げ、やがて平静を取り戻すかのように演者と観客が一体となって着地する。
シンプルな音と構成、広いステージにまるで装飾されていない舞台上にも関わらず、
生身の人間が身一つで繰り広げる世界に、心を奪われました。
決して忘れたくても忘れられない、お代わりしたくなる朗読。
とことん、お客さんの心に迫り、寄り添い、揺さぶる朗読。
決まった形にとらわれず、自由に身体表現するダンスをコンテンポラリーダンスと言いますが、
同じ読み方は存在しない、相手によって変わっていく朗読。
言うなれば、目指すは、コンテンポラリー朗読でしょうか。
どこまで表現できるか分かりませんが、全力で頑張りたいと思います。
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